水だけで"最強の結合"を切断することに成功 ~マイクロドロプレット界面で進行するC-F結合切断法の発見~
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カテゴリ:プレスリリース|2025年6月 9日掲載
発表のポイント
〇 有機化学で最も強力な炭素とフッ素の結合(C-F結合)を、水だけで常温・常圧下で切断することに成功
〇 マイクロドロプレットの空気-水界面で、フッ素の脱離と求核置換反応がミリ秒以内に進行
〇 触媒・試薬・電力を一切必要としない、持続可能かつ環境負荷の極めて低い反応手法を確立
〇 PFASの分解をはじめ、医薬品や材料分野への応用が期待される革新的な界面反応技術
概要
名古屋工業大学 生命・応用化学類の柴田哲男教授は、インド・IISERティルパティのShibdas Banerjee教授(2024年度 新領域学術院 招聘研究者)らのグループとの国際共同研究により、有機化学で最も安定とされる炭素-フッ素(C-F)結合を、"水だけ"で切断する画期的な反応を発見しました。この反応は、通常の水溶液中では全く進行しないにもかかわらず、直径約5マイクロメートルの水の微小な液滴(マイクロドロプレット)の空気-水界面という特殊な環境において、触媒や外部試薬を一切使わず、極めて短時間でC-F結合を切断し、置換反応を引き起こします。本研究は、芳香族フッ化物およびトリフルオロメチル化物の脱フッ素反応を持続可能かつ環境負荷の少ない方法で達成した実例であり、環境浄化、医薬品開発、材料化学など多様な分野、とりわけ、環境問題で議論されているPFAS(*1)の分解研究への波及効果が期待されます。成果は米国化学会誌「Journal of the American Chemical Society」オンライン速報版に2025年6月3日付で掲載されました。
研究の背景
有機フッ素化合物は、その高い安定性と独特な性質から、医薬品、農薬、電子材料などに広く用いられています。中でも炭素-フッ素(C-F)結合は、有機分子中で最も強固な結合(結合解離エネルギー:約130 kcal/mol)であり、その化学的安定性が利用される一方で、分解の困難さが大きな課題となってきました。特に、環境中に長期間残留するPFASは"永遠の化学物質"と呼ばれ、国際的な環境問題となっています。 これまでC-F結合を切断するには、高温高圧、強力な還元剤や金属触媒、電気化学・光化学的手法など、過酷な条件や高コストの外部エネルギーを要する手段に限られており、「環境調和的で持続可能な方法によってC-F結合を切断できないか」という問いは、有機化学における長年の挑戦でした。本研究では、この難題に対し、近年注目を集めているマイクロドロプレット化学を応用することで、水だけでC-F結合を切断することに成功しました。
研究の内容
研究グループは、有機フッ素化合物を含む水溶液をエレクトロスプレー技術(*2)で霧状にし、マイクロドロプレットとして噴霧する方法を採用しました。これらのマイクロドロプレットは、表面積が極めて大きく、寿命が1ミリ秒未満という特徴を持ち、空気と水の界面において常識とは異なる化学反応場を提供します。 この特殊な界面で、芳香環に結合したCsp2-F結合や、トリフルオロメチル基に代表されるCsp3-F結合など、通常は切断が難しい結合がわずか数ミリ秒で切断され、フッ化物イオン(F-)の放出とともにカルボカチオン(C+)中間体が形成されました(図1)。これらは水、アルコール、アミンなどの求核剤(*3)と反応し、脱フッ素置換体へと変換されることが確認されました。 特筆すべきは、この一連の反応が外部試薬や触媒を一切用いずに進行する点です。さらに、スプレー電圧を上げるとプロトン(H⁺)が表面に集まり、界面が超酸性状態となることで、C-F結合の切断が著しく促進される現象も観測されました。ガスクロマトグラフ質量分析(GC-MS)解析(*4)では、4-フルオロアニリンが4-アミノフェノールへと約10%の収率で変換されたことが明確に示されました(図2)。最終的に、最大12%の変換率が、1ミリ秒未満という反応時間で達成されるという驚異的な成果が得られました。

本研究で明らかにした脱フッ素置換反応の核心は、マイクロドロプレット表面に生じる「一電子還元」「超酸性化」「強電場」という三つの要素が連鎖的に作用する点にあります。まず、正電圧を印加したニードル先端(陽極)では水の電解酸化が起こり、酸素と同時に多数のプロトン(H⁺)が発生します。生成した H⁺ は正に帯電した液滴の表面へ集まり、わずか数ナノメートルの界面に極度のプロトン過多状態、事実上 pH = 0 をはるかに下回る"超酸性界面"を形成します。一方、同じ界面には水酸化物イオン(OH⁻)も存在し、これが電子を1個放出してフッ素化芳香族(ArF)へ注入すると、瞬時にラジカルアニオン(ArF•⁻)が生じます。このラジカルアニオンは C-F 結合をヘテロリティックに裂断し、フッ化物イオン(F⁻)と芳香族ラジカル(Ar•)へ分離します。表面電場は10⁷-10⁸ V m⁻¹という極めて高い値に達しており、電子注入とフッ素脱離をさら に促進すると同時に、正電荷を帯びたプロトンが Ar• から電子を奪い取ることで、わずか数百マイクロ秒以内にカルボカチオン(Ar⁺)へと酸化します。こうして誕生した Ar⁺ は水滴内部へは拡散しにくく、表面に滞留したまま水分子やメタノール、アミンなどの求核剤とSN1型で反応し、Ar-OH や Ar-OMe、Ar-NR₂ といった脱フッ素置換体へ変換されます(図3)。全過程が液滴寿命(約1ミリ秒)より速く進むため、最大で 12 % 程度という高い変換率が得られることが、本研究で質量分析および GC-MS により実証されました。
印加電圧を下げると、液滴表面のプロトン密度と電場が同時に低下し、Ar⁺ 生成シグナルと生成物量はいずれも急減します。逆に 0 kV から +5 kV へと電圧を上げると、H⁺ 供給と電場強度が相乗的に高まり、C-F 結合の切断効率は数十倍に上昇しました。電圧は単なる帯電の手段にとどまらず、界面を"超酸性かつ高電場"という特異な化学環境へ引き上げる決定的パラメータであることが分かります。

社会的な意義
本研究の最大の意義は、長らく「切れない結合」とされてきたC-F結合を、身近な物質である水だけを使って、常温常圧・無試薬で切断できる道を拓いた点にあります。特にPFASのような環境中で分解困難な化合物に対し、持続可能で低エネルギーの分解法を提供する技術として、今後の環境化学・産業応用への貢献が期待されます。また、触媒を使わず、液滴表面だけで反応が進行することから、微量分析や高速合成、界面化学の分野においても新たな展開をもたらすと考えられます。
今後の展望
今後は、マイクロドロプレットの生成効率や寿命の最適化、複数ノズルの連続使用や反応液循環システムの構築により、収率の向上と実用スケールでの応用が期待されます。また、他の難分解性有機化合物への適用や、ナノ構造材料との組み合わせによる新反応の探索など、「界面反応化学」としての学術領域拡大にもつながると考えられます。
本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 CREST研究領域「分解・劣化・安定化の精密材料科学」(研究総括:高原淳)における研究課題「フッ素循環社会を実現するフッ素材料の精密分解」(研究代表者:柴田哲男)(課題番号JPMJCR21L1)の支援を受けて実施しました。
論文情報
論文名: Breaking the Strongest Organic Bonds by Water: Defluorosubstitutions at the Air-Water Interface of Microdroplets
著者名:Abhijit Nandy, Anitesh Rana, Norio Shibata, * and Shibdas Banerjee*
*責任著者
掲載誌: Journal of the American Chemical Society
公表日: 2025年6月3日
DOI: 10.1021/jacs.5c02851
URL: https://pubs.acs.org/doi/full/10.1021/jacs.5c02851
用語解説
(*1)PFAS
ペルフルオロアルキル化合物、ポリフルオロアルキル化合物の総称で、PFASの定義には国際的な統一基準はないが、OECD(経済協力開発機構)によると、「少なくとも一つのCF3またはCF2基を含むフッ素化合物」がPFASに該当するとされる。この定義に基づくと、従来の長鎖PFAS( 例:PFOS( ペルフルオロオクタンスルホン酸)、PFOA(ペルフルオロオクタン酸))に加え、トリフルオロ酢酸(TFA、CF3COOH)もPFAS に含まれる。また、PTFE も完全フッ素化されたポリマーであり、PFAS に分類されるが、「ポリマー型PFAS」として別途議論すべき対象である。
(*2)エレクトロスプレー技術
液体に高い電圧をかけて霧(とても小さな液滴)にする方法。液滴は帯電しているため、質量分析装置などへ効率よく送り込める。化学反応の研究やタンパク質の分析によく使われる。
(*3)求核剤
一般に電子を多く持ち、正電荷や電子不足の部分に攻撃して結合を作る分子やイオンのこと。水(H₂O)、水酸化物イオン(OH⁻)、アルコール(ROH)、アミン(RNH₂)などが典型例。
(*4)ガスクロマトグラフ質量分析(GC-MS)解析
ガスクロマトグラフと質量分析計からなる装置を用いる分析手法。複数の成分で構成される試料の各成分の重さを測る分析法。
お問い合わせ先
研究に関すること
名古屋工業大学 生命・応用化学類
教授 柴田 哲男
TEL: 052-735-7543
E-mail: nozshiba[at]nitech.ac.jp
広報に関すること
名古屋工業大学 企画広報課
TEL: 052-735-5647
E-mail: pr[at]adm.nitech.ac.jp
*それぞれ[at]を@に置換してください。
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